本音100%日記。

本音。ただただ思ったことそのまま日記。Noteのように使ってます。

旅行の醍醐味、好奇心の方向

(文脈ぐちゃぐちゃ、読みにくい、意味のわからない、なにが言いたいのかわからないわたしのぐっちゃぐちゃな思考回路を表すブログです)

 

最近友人になぜ旅行に行くのか、行くならなにが楽しいのかと聞かれた。

 

そのときにふと、わたしは好奇心を自分の外の世界に求めているんだなと感じたという話。

 

①旅行が好き
わたしは、時間とお金さえあればできるだけ旅行に行きたい。また、人生のゴールとして将来どんな生活がしたいかと聞かれたら、快適な旅行に行ける生活を送ることと答える。

昔から旅行が大好きだ。しかし、なぜ旅行が好きかとは考えたことなかった。また、旅行をそこまで楽しめない人がいるなんて考えたこともなかった。

だからお金を払ってまで行く価値を感じない人がいることに驚いた。

わたしは体験を買うと思い旅行にお金を払うことには納得している。飲み会にお金が飛んで行くなら旅行がしたいという後悔はよく感じていたが、旅行に行くなら〇〇したかったという後悔をしたことはない。バイト代を旅行に使うことにためらいを感じたことはなかった。


②なぜわたしは旅行が好きなのか。

身体で物事を感じ、今まで頭でイメージしていたものと繋がったときなんとも言えない喜びを感じるからだろう。身体全身で感じ、本当の意味でそのものを知った喜びだ、それが楽しい。

写真で見てたものについに出会えた喜び、その景色、その建造物を感じる喜び、見たことなかった世界を発見した喜びなどたくさんの喜びがかさなる。旅行でしか味わえない楽しさだ。

また、そのときだけではなく、旅行の経験は後々に過去を振り返ったときにも喜びを与えてくれる。
行ったことのある場所の話が後日耳に入ると、自分の見た景色が頭にフラッシュバックされる。そのときの思い出とともに。旅行はそのときだけに限らず、何度も楽しさをくれるのだ。だから旅行のその日にお金を払っているのではない。何倍もの価値がある。

どこかに行き体験する非日常の物事は全身全霊で感じていることが多く、忘れにくい。身体で感じると脳への刺激が大きいから忘れにくいのだろう。だから何度も楽しめるのだ。

これからも旅行にいって喜びを得て、人生を濃いものにしたい。楽しみを感じる機会を増やしたい。
おそらく旅行など外界に楽しみを求めるわたしは、好奇心が自分の外に向いている。自分に関心を持つより外界に楽しみを見つけることが多い。外界と接し、関係を持つことが楽しい。
その関係の中での発見が好きだ。

自分でなにか成し遂げたいとかいう感情はそこまで強くない。あまり粘り強くもない。そんなに成果にこだわりを持てない。負けず嫌いでもない。
むしろ周りの人と一緒に喜びを分かち合いたいし、人が喜んでればわたしも幸せだ。人と話してれば幸せだ。

そこまで達成欲求がない理由がなんとなくわかった。あんまり自分の能力に関心がない。


③旅行に価値を置かない人とは

個人的な見解だが、旅行をそこまで好まない、体験に価値を感じない人は身体より頭が先行する人に多いように思う。

それぞれの旅行の目的は〇〇の建物を見ること。とか、〇〇の景色を見ること。となっていることが多い。これに対してなら写真や動画で見れば十分じゃんという意見があるのもまあわかる。お金かけてまでやりたくないというのもまあわかる。

わかるけど同意はしない。だってわたしは自分の目でその〇〇が見たいし雰囲気を感じたいんだもん。匂いを感じたり、大きさを感じたりは行かなきゃできないことだ。それをやりたいと思うかはその人次第。旅行をあまり好まない人は体で感じるというより頭で物事を感じる人なんだと思う。

そもそも、旅行とは行ったことのない場所、人、空間と出会うことであろう。自分とその空間との出会いなのだ。

この出会いに関心がなければ旅行はただのお金の浪費だ。だって、写真で見る景色も実際に目で見る景色も同じものには違いない。

だから、身体で感じるより頭で考える判断することに重きをおく人には旅行より日々の成果の方がよっぽどおもしろく意味のあるものなのだろう。旅行に価値を置かないわけだ。

彼らの好奇心は彼らの中にあり、彼らの内に向かっているのだろう。彼らは好奇心を満たすために彼ら自身でなにかをするように思う。そのような人が達成感をなによりの喜びとし、負けず嫌いな人になるのかもしれない。うらやましい限りだ。

 

 

思い、感じるままに文書にしているのでなにを言いたいのかよくわからないが

とりあえず自分の内部の充実を好む人と外との関係性を重視するタイプがいてわたしは後者。

だから身体で外界を感じる旅行が好き。以上。

 

新環境が好き

ブログタイトルを変えた。理由は引越しをしたから。

 

以前のタイトルは「ベルビューカレッジ×カークランドライフ」。

 

しかしわたしはもうカークランドには住んでいない。無事ベルビューカレッジからすぐそばの家への引越しを終えている。

 

タイトル無双中なのでとりあえずベルビューカレッジってことで保留。

 

この記事のタイトルに戻ると、引越しをし、環境が変わった。そんな環境が変わったばかりの今がとても好きってこと。

 

引越しをしたらアメリカに来たばかりのときの初心に戻ったような気がした。

 

新たな人々と新たな家で、新たな土地で新しい生活がスタート。もうなんかワクワクする。周辺を散歩したり周りのお店を検索したりとても楽しい。

 

ワクワクすると活動的になれる。朝から動きたくなる。

飽き性で新しいことが好きなわたしには環境に慣れるまでのその期間が1番楽しい。

 

ワクワクが続いている間は気を張ってポジティブ期でがんばれそうだ。

英語が勉強したくなった。


以前の記事の話に戻るが、今は英語が勉強したくてたまらないから単語をやり、TED talksをひさびさに見始めた。いい流れだ。

やりたくなったからまたはじめた。無理やりではない。


環境が変わるとワクワクする。もちろん、アメリカのシアトルエリアに住んでいることは変わらないので大きな変化ではない。

 

しかしこうした日々の変化が好きだ。

 

単純な思考回路でよかった。

 

次の変化は夏休みが終わり、秋クオーターがはじまるとき。楽しみ。


またはじめはやる気に満ち溢れるだろうなあ。

だんだんだらけてくるのもわかってるから、はじめのスタート時期だけがんばろっと。

 

最近楽しい!って思うときってなんかはじめたばっかりのときが多いから、
やる気がなくなったらなにか自分から変えてみるのが大事なのかもなあ。

 

なんてだらだら記事を書いたTOEIC前日。そろそろやりますか。

 

やらなきゃいけないというプレッシャーを克服した話

留学に来て5カ月になった。夏学期が終わり、夏休みに入り、どうも最近だらけがちだ。

 

やらなくてはならないことはわかっている。まず、ボスキャリのES、来月のTOEIC,たまに思い立ってやり始めいつも突然中断するHTML。

しかしまあやる気がでない。どれも始めてもすぐに中断してしまう。きっとやらなきゃいけない義務感を感じているからだ。やってみたいことがやるべきことに変わるにつれ、やる気は消沈していく。いつものことだ。

日本の大学でもテスト前でさえギリギリまでいつも何もしなかった。周りからは「よくやらないよね」と言われていた。友人に激しく同意。よくやらないよね自分。

中高大と変わらないわたしの性質。そんなわたしの今のステータスは大学4年次休学、アメリカ留学中。
親に頼んでさせてもらった留学。どうしても行きたかった留学。よく英語もっと頑張らないよねわたし。

そんな日々が続いていて、なんとなく「よくやらないよね」という自己嫌悪への自分なりの答えを見つけた。

 

それは、やりたくないからやらないしやれない。やりたいことをやりたいときにやる。それでいいじゃん。ってこと。

 

「よくやらないよね」という言葉にずっと悩んでいた。なんでわたしはやらないんだ、やれないんだ。という自己嫌悪。人からも自分の心からも感じる「よくやらないよね」のプレッシャー。

 

しかし、最近思うことはやらないんじゃなくて今それに興味がないだけってこと。今は興味がないだけで、またやりたくなったらやるしそれでいいじゃん。

じゃあ宿題はずっとやらなければいいのか。という話だが、究極的にはやりたくなかったらやらなきゃいいと思う。

 

でもわたしの場合はぎりぎりになったら成績が下がるのが嫌だから、みんなやってるのに自分だけやらないのは許せないから、最後には結局やる。


期限が迫ってくると焦り、宿題がやりたくなるから自分からやりにいく。やらない選択とやる選択で、やる選択をとりたくなるからやる。

 

回りくどいが、最後はやりたくてやるのだ。好きだからやるのではなく、やらないことの弊害の方が嫌だからやる。

 

もちろん早め早めから始めるに越したことはないのだが、やりたくないときに無理やり図書館に行ったりしても嫌だ〜やりたくない〜とだらだらし、けっきょくギリギリまで放置するのと変わらない。課題などきちんと完璧にやれたことはほぼない。これがわたし。8割のことを意外と効率よくできる。みんながすごいのを作っててももう知らない!わたしにはできないんだからいいの。

 

そんなこんなで、やりたくなるまでほっといてほかのことをもっと楽しみたいというのが最近の結論だ。

 

だから最近はやりたくなるまではやらないでいいやと割り切り、自己嫌悪もなくなりとても気楽だ。

 

わたしにはこれがいいが、人それぞれだろうなあ。

 

なぜやらないんだのプレッシャーからやっと解放されてとてもうれしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

自己啓発本が好きなわけ

自己啓発本が好きだ。

 

やる気がないときにすることとりあえず自己啓発本を読む。「なにか変われるのではないか」という今までに幾度となく失われた希望をもって。

 

「自分を変えられるのは自分しかいない!とにかく始めることが大切!思い立ったらすぐ行動しよう!時間は戻らない!これが一流と二流の違いだ!」などなど。

 

うん、その通り。

 

大抵の自己啓発はこのようなことを言い、わたしをやる気づけようとしてくれる。

 

しかし、自己啓発の言葉を聞いてどれだけの人が行動に移せているだろう。(ちなみにわたしは自己啓発肯定派)

 

本を読んだ直後「なんかやる気が出てきた(気がする)」となるが、実行に移される確率は低い。

それゆえ、実行に移せなかった人々が自分を高めようと思い再び自己啓発本を読む。わたしのように。この終わらないサイクルゆえ、世の中に自己啓発本が毎年何百冊と発行されるのだろう。

 

意識の高くないわたしに自己啓発本の有効性はあまりない。本を読んだところで変われない。

だが、わたしは自己啓発本が大好きだ。なぜなら、これらの本は読み終わった後に快感を与えてくれるから。エナジードリンクを飲んだ後の効果みたいに。

 

なぜかはわからないし、結局はやる気を活かしきれていないのだが、なんか元気になる。なんかやる気がでてくるのだ。


やる気がでてくるような気がするのに行動に移さない(やる気はでていない)のが矛盾しているのはわかっている。でも、わたしにとっての自己啓発本はうまく言えないがそういう効果を持つのだ。

 

ハイになって元気になった気分になるのに結局体力は回復していないエナジードリンク効果とまったく同じじゃないか。


最近なーーんか集中力がないので偽りのやる気を得るためにお気に入りの自己啓発本を再び読みはじめた。

 

読んでいるときになるほどな、おもしろいと思え、読んだあとまで気分のいい自己啓発本やめれないねえ。

 

 

 

 

 

衣服捨てないの!?古着屋の存在

ごみ回収に衣服を捨てる日がない!?

最近引っ越しをした。その際にいらない服や靴を捨てようとしたわけだが、捨てる際に立ち止まった。あれ、これ、どのごみ箱?

 

ワシントン州の各家庭には大きなごみ箱が3つある。

しかし、衣服の表示がない。ホストマザーに聞くと、「value villegeに持っていくから置いといて。」と。なるほど。衣服はリサイクルショップに寄付というわけか。

 

シアトルエリアにはgood willやvalue villegeという古着屋が何店舗もある。もちろん知名度も高く、多くの人が利用している。

日本の古着屋と違うと感じたのは値段の安さだ。私の以前のイメージだと、古着屋は個性的なファッションを好むおしゃれな人が通うところだった。個性的なデザイン、限定デザインのプレミアムのついたブランドものを安く仕入れ、そのブランドにしては安く売っているというのが日本の古着屋の印象だ。だから、わたしは日本で古着屋に行ってもその値段なら新品買おう。新しいのがいい。となり、一回も購入したことはなかった。

 

しかし、アメリカの寄付から成り立っている古着屋はブランドものとかではなく、ただひたすら値段の安いものがたくさん置いてある。Tシャツ、帽子は3ドルくらいからあった。個性的なデザインを求めていくというよりはとくにこだわりはない安いものを購入したいときに行く場所だ。しかも衣類をはじめ、家具、時計、水筒、キャンプセット、など大抵のものはおいてある。一気にそろうのは非常にありがたい。

 

わたし「古いものを安くね。そうそう、これが本来の古着屋でしょ。」

 

基本的に人が使ったものは嫌いだが、この値段なら許せる。から買う。また、このものを買うことが寄付につながっているのかと思うとさらに買ってもいいかという意識が生まれる。(多少)

 

話は戻るが、衣服を捨てないで古着屋にもっていくという流れができているのはすばらしいと思った。

もちろん日本にもbookoffなど古着を回収してくれるところはあり、わたしの家の近くにもkg単位で安く買い取ってくれるところがある。しかし面倒くさがり、持っていくのをためらうゆえ、衣服はいつもごみの日に捨てていた。衣服のごみの日になるとごみ捨て場に大量の服が捨てられていた。服を捨てるのが当たり前なのが日本。安く買ってすぐ捨てるのだ。

 

無事、いらない服を捨て、新しいホームステイ先に到着。そして、ここでも再び古着屋の存在を再認識することとなった。

新しいホストマザー「これ前に住んでいた人が置いて行ったものだからいるものあったら使ってね!いらなけれはvalue villegeにもっていくから。」

 

おお、ここでも再びvalue villege。いらないもの=value villegeへ。ってわけか。

わたしはいらないけど捨てるのはもったいないきれいなものばかりだもんなあ。

そんなこんなで今まで日本で簡単に捨てていたことを反省した今回の引っ越し作業でした。

 

 

カレッジからめっちゃ遠かったカークランドともお別れ。遠かったなあ。でも好きだったなあカークランド。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ecoかはわからないが、アメリカでは捨てないで再利用という考えが浸透している気がする。

 

自信がないから着飾るということ

なんで日本人はファッションに気を使うのか考えてみた。

 

だらだらと書いていますが、

 

自信がないのをカバーするために着飾るのをやめたい!着飾りたいときだけおしゃれしたい!普段は快適でいたい!!

 

ってこと。

 

 

アメリカの大学生で毎日おしゃれに気を使い、毎日ばっちり化粧をしている人に会うことはほぼない。なぜ日本はみんなばっちり化粧をし、毎日雑誌やテレビでとりあげられるような服を着ようと努めるのだろうか。

 

わたし自身、アメリカではおしゃれをしようという意識がどんどん薄れているように思う。来たばかりの頃は家を出る時間の1時間前から準備を始めていたが、今では出る時間の30分前に起きたりしている。おそらく、日本にいたときは化粧がしたかったわけでも、しゃれた服を着たかったわけではなく、みんなそうしてるからしていただけなのだろう。本来、わたしは快適な服が好きだ。

 

日本ならジャージやビーサンで学校に行くことはまずできなかった。周りからださい、外見に気を使わない人だと思われるのが嫌だった。また、朝時間がなくてきとうな格好、てきとうな化粧で行くと自分が醜くなったようで自分に自信を失っていた。もし知り合いにあっても存在をバレないことを祈り、さりげなく通り過ぎていた。それほどまでに周りを気にしていたのだ。

 

日本で着飾って学校へ行っていた理由は、まわりによく思われたいから以外の何者でもない。さらに、大抵はよく見られたい特定の人がいるわけではなく、世の中の知らない人々を意識し、着飾っていようと思っていた。

 

ちなみに、日本では学校に行く目的は勉強ではなかった。目的は単位だ。だから行くことだけが目的で、行けばなんでもよかったのだ。

 

アメリカ人にとって大学は勉強する場所だ。彼らの目的は勉強。着飾ることが目的じゃない。なんて合理的な。彼らはいつもおしゃれをしないのではない。必要なときはする。気飾ることが目的の時は化粧をするのだ。彼らは自分に自信がないから化粧をするのではない。うまく言えないが、目的に合わせて、場面にフィットするために化粧をするというかんじだろうか。


そんなこんなでアメリカにきて、自分を持つっていいなあ。自信があるっていいなあ。周りとあんまり比べなくていいなあ。って思ってもわたしは日本人。外見に対する日本人的考えは抜けない。

 

ジムに行くだけでも気持ち的に少しは化粧をするし、家から一歩でもでるならコンタクトをする。誰も見ていないのはわかっていてもましな自分でいたいのだ。つまり自分に自信がない。この根本が変われない。

 

自信を持てば見えてくる世界、振る舞い、考えは変わるのだろうか。わたしはまだその世界を見たことはない。いつか自信を手に入れて新たなステージから過去の自分をバカだったなあって思える日がくるのだろうか。いや、来て欲しい。

 

なんて考えた夏クオーター最終日。

夏休み楽しみ!

やりたいこと全部やる夏休みにしよっと。

新卒に縛られないということ

アメリカに来て感じた職能別採用。
新卒という概念がないアメリカ。企業はスキル重視でポジション別に募集をかけるため、スキルさえ持っていればいつでも就職できる。また、一度就職しても大学に戻り、キャリアチェンジすることも可能だ。

 

そのためか、わたしの通っているベルビューカレッジには社会人の方もたくさんいる。50歳オーバーの人もいるから驚きだ。なんで大学で勉強すること決めたの?と聞くと、「仕事でこのスキルが必要になったから勉強しに来たんだ。これができれば高い給料が貰えるからね。」と言っていた。

 

また、同じ質問に対して、別の人は「働いていて〇〇が得意なのがわかったんだ。専門的に学んで〇〇の仕事に就けば今より良い生活ができるからね。」と。


なるほど。考え深い。給料だけでなく、スキルも会社からではなく、自ら得るものなのだろう。会社は人材を育てることよりも、いい人材を採用することに重きを置き、人材レベルをアップデートしていくという感じだろうか。
給料を会社様に"頂く"と言うより、会社は給料を得る手段のようだ。


日本で会社と従業員との関係は従業員が心身ともに会社様に全てを献上し、"従業員が会社様からお給料を頂く"という言い方が正しいのではないだろうか。


一方アメリカの場合は
"会社が従業員の仕事に対して給料を支払う"という、日本よりは対等な関係にあるように思う。

 

スキルがあればいつでも転職ができる。だからいつ働き始めてもいいし、いつやめてもいい。なんて自由な。自分中心の自分が最優先な文化、嫌いじゃないです。良くも悪くも集団としての意思をあまり形成せず、俗に言う「正解」は存在しない。

 

また、一緒に住んでいるルームメートと出会ったことも「正解」「当たり前」がわからなくなった1つのきっかけだ。そのルームメートは中国人でカレッジから4年生の大学に進み高い学位を持つ。しかし初めから企業に就職する気はまったくないようだった。大学卒業したらどうするの?と聞いたらアパレルでバイトするよ〜と言われ、わたしの頭の中は???状態。「タフな精神を身につけるためにノルマの高いとこでサービス業をやってみることにしたんだ。」と言っていた。大学卒業したら会社で働くというこんなに当たり前のことがアメリカでは当たり前じゃないのか。それとも彼女が例外なのかはわからない。ただ、4年生大学を卒業した女子という点で自分と同じ状況の彼女の選択は少なくともわたしには衝撃だった。


なにがやりたいの?と聞いたらファッション関係の仕事に就きたいとは思ってる。と。まだ決まってないからとりあえずバイトで精神鍛える〜って日本では考えられない。とりあえずやりたいことがあってもなくても就職するのが当たり前だ。

 

日本の当たり前基準とは違うところで生きている人たちを見て、

"みんな違ってみんないい"という言葉の意味を22歳になって初めて、アメリカに来て初めて理解できた気がする。

 

日本でもよく聞く言葉だが、日本では綺麗事の中に留まり、現実味を帯びていないのではないだろうか。日本では"違っていい"という言葉の前提として、みんなが良いと認めるその範囲内での"違い"を良いと表しているように感じる。

 

人と比べない。自分に中心を置けばいい。こんな簡単なことがなんでできないのだろう。アメリカにいる間に、自分が大切にする基準を見つけられたらいいと思う。