目標達成できない理由
目標達成することがすべてなのだろうか。
そもそも、目標達成って何のためにするの?
現状を変えて、理想の姿とのギャップを埋めるために目標を設定するんでしょ??
なら現状で満足してたらいくらたっても目標なんて達成できないじゃんって話。
世間一般にすごい人、成功者と言われる人はみな同じようなこと言っているなあ。と最近感じた。
同じことではない。同じようなことを言っているのだ。
物事の本質はいつの時代も同じで、「言われてみればそんなの当たり前」ということを実践している人が成功する。そういうことなのだろう。
たとえば、人と違うことをして功績をあげた人の自伝を一気に読むと、皆共通して言っているように思う。
「人と違うことをして有名になる」
「競争相手の少ないところで一番になる」
「長期的スパンで考える」
「思い立ったらすぐにやる、先延ばしにしない」
「今この瞬間から未来を変えられる」
「最後までやりきる」
などなど。
成功者は同じようなことを言う、そしてそれらを様々な方法で実行に移しているのだ。
成功している人と凡人との差は実際に行動できるかどうか。目標設定するだけでは凡人。目標を設定してそれに向かって行動できる人が成功できる人。
これだけの違い。しかし、これが難しいのだ。
最近、本をたくさん読むようになって、名声とお金を手にしている成功者たちは皆高い目標をもち、実現に向けて行動してる。ということを再認識した。(本を読むたびに感じるから正確には再再再再再再認識)
だからあなたも彼らのようになりたかったら〇〇しなさいっていうアドバイスを何個も読んだ。
それを読んで思うことは、
目標達成のための努力してるときってあんまり幸せじゃないなあ。ってこと。
もしすごい人になったらそれは幸せなんだろうけど、わたしは今も幸せだよ。っていう。
はあ、凡人。
より良い生活を手に入れるためには〇〇っていうけど、良い生活なんて人によって違うし、究極的には目標なんて達成しなくてもいいじゃん。っていうゆとり世代。
そこで、感じたことがある。
成功者は成功者するために〇〇ってことをしていた、だから成功したければ、、、って言うけど、
現状に満足してたら何度それらを聞いたところでなにも変わらないし、そもそも本気で変わろうとすら思ってないよね。ってこと。
受け身では何も変わらないよね。はい。
「わたしにはできない。」のではなく、わたしはやる必要性を感じていないんだな。
いつまでたっても「そうなったらいいな」っていうbetterを求めてるだけ。そりゃあ原動力なんてちっぽけになるよなっていう。
日本の世界と比べた原動力のなさの原因もこれだろう。危機感のなさ。
世界と比べて現状があまりにも満ち足りすぎているゆえに(世界と比べて)原動力がない日本。
(日本の中で現状に満足していないひとはそれを変える原動力を持っているのは承知だ)
だから、日本は落ち目って言われているけど、現状に猛烈な不満を感じるようになったらそこからはまたグングンあがっていくんじゃないかなあ。
それも程度問題だけど。
現状に本気で不満を感じなかったら、目標達成のために頑張るなんて無理だよね。
むしろ頑張ることで不快になることさえあるよ。
今いる現状を変えることが果たしてすべての人の幸せなのだろうか。
そんなことを考えるわたしは現在、自己分析の最中です。
働く理由の見つけ方を学んだ話
就活。
やっと、働く理由=やりたいことが見えてきた。
「これがやりたいことです」と言えるものを見つけられそうである。
やりたいことの見つけ方にやっと気づけた。「まずやりたいことから考えなよ」という意見に対し、ようやく自分なりの納得感を持てたのだ。
そのことを「やりたいことも行きたい企業もない」と言っていた自分を振り返りつつ今後のやり方についてここに決意を表明したい。
①やりたいことが決まらない
それぞれの企業に良いところがあり、行きたい企業が決められない。
だからそれぞれの企業の良いところに点数をつけて比べることにしていた。
だがしかし、これもいいしこれはいやだしでもこれはいいし、、、となり、一向に決まらない。
だから、自分が知っている企業の表面的な特徴だけを見て、業界バラバラに受けたい「企業」というのを決めていたのだ。
周りからは「まずやりたいこと決めなよ」と言われるが、抽象的なやりたいことなんて山ほどあるよ!とそのときのわたしは思っていた。
例を挙げるなら
東京にいたい、ほめられたい、好きなものに関わりたい、得意ではないことをするのは嫌、新しいことに挑戦したい、休みが欲しい、給料もほしい、安定した会社がいい、社風が合うところがいい、将来性がある、スキルを得れるなどなど。
これらすべてを求めるなんて無理なのもわかっていた。だから、それら沢山の項目に対する程度問題を感覚で区別し、企業を絞っていたのだ。
今だからわかる。わたしが上にあげたことはただのあったらいいなっていう"条件"。
条件だからやりたいことではないし、それらが揃っていたらがんばれるかと言われたらそうではない。
つまり、究極の「働くことを通じてやりたいこと」からは完全にずれていたのである。
なんだ、こんなことずっと言われてきたじゃん。はじめから色んな人が教えてくれたはずだ。
結局のところ、やりたいこと=なんのために働くのか=働く理由ってわけで、それがあればどんな環境でもある程度は幸せなのだ。
働く理由があっての条件だ。
だからやはり働く理由というのをなにがなんでも自分の過去の経験や現在感じていることから見つけなければならない。
やりたいことがないと言っている場合ではない。
わたしにもやりたいこと=働きたい理由があるはずなのである。
②やりたいことの見つけ方
そこで、それを見つけるために、今までやっていて心から楽しいと思ったことから、自分の行動の原点となるところを見つけ、それを一つの軸として具体的に落とし込んでいくことにする。
それに気づいたら、「働くことを通してやりたいこと=働く理由」というのがどんどん明確になってきてとてもたのしい。
こう思えたのは就活相談をしてハっとしたわけだが、これに気付くまでに何度ひとから言われたことか...。
軸を具体化するにあたり、まずわたしの行動の原点とはなにかを考えた。
それは「人を喜ばせること」だった。
自分について幾度となく考えてきたが、毎度行き着く先はこれなのだ。どんなエピソードをとっても、それらはすべて人を喜ばせ、人から感謝されるためなのだ。
きれいごとのようだが、わたしは「ありがとう」と言われるために行動しているといっても過言ではない。
人を喜ばせたい。これをベースに今自分の理想とするイメージを詰めているところだ。
誰に喜んでもらいたいのか、どういう手段で喜んでもらうのか、直接的か間接的かなどなど。
ひとつの明確な軸をまずひとつ決め、それに添いながら具体化していく。
ほかの条件たちはこのとき考慮してはならないのだ。これが大事。ほかの基準を盛り込むとなにがなんだかわからなくなる。
まず軸を明確に具体化する。これにつきる。この作業を進めている最中だ。
人に話せば話すほど深掘りされていく。それが快感。自分というのがわかってきてとても楽しい。
1人だと深いところまで考えられないし、楽しくない。だが、人に話しながら考えていくのはとても楽しい。
もっともっとやりたいことを明確にして、自分の1番フィットする仕事を見つけたい。
自分の軸が見えてきたら急に自己分析が楽しくなった。
まったくわからない状態は不快だが、少しできるという状態はなんとワクワクするんだろう。
もう4月末。自己分析をする時期としては遅すぎるが、まだなんとでもなる。そう思っている。
ブランド名は質を保証するもの?
日本にいたときにただの高い物だと思っていたブランドの概念が変わった。
ブランドにはデザインを保証すると同時に質を保証するものだったのか。と。
極寒のニューヨークに行き街行く人がカナダグース(canada goose)のダウンを着ている。日本にいたときは10万のカナダグースを買うのは高いもの=すべて良いものだと思っているただの金持ち、としか思っていなかった。が、これは寒い地域ではこんなに意味があり、需要があるものだったのかと驚いた。内側はダウンで外側は風邪を遮断する素材。どのコートより極暖。人々はカナダグースというブランドを求めていたのではなく、この実用性を求めていたのか。と。
UGGのブーツも同様。3万4万のムートンブーツ?なんでデザインが飛び抜けておしゃれでもない(すみません)3万のムートンブーツを好んで買う人がいるのか意味がわからなかった。しかし、UGGのブーツは靴底が厚く、防水性に優れ、極寒の地では必要不可欠なものだった。日本ではマイナス10度になることはあまりないし、ここまで足先の寒さを防ぐ必要性はまったくないが、ニューヨークではUGGの品質レベルが必須。
寒い地域で過ごすなら、カナダグースとUGGのブーツがほしいと心から思う。
日本では身の回りのものを選ぶときにデザインだけを見ていた。これは寒さという不快をそこまで感じることがなかったから。
おしゃれなものを着ることが第一優先だった。
しかしニューヨークでは寒さを防ぐことが第一優先。
まあ、そのときそのときの状況に必要なものを揃えて行けばいいんですよね。当たり前ですね。
ニューヨークに行って、初めて質の良いものがほしくなったってだけの話です。
もし今後めちゃ寒い土地に行くなら完全防備のダウン買ってから行くつもり。カナダグースのものなら寒さを防備してくれる。こういう信頼感をブランドは保証している。
人に価値を認めてもらえて、〇〇の質が欲しい!と思ってもらえるような商品を世に送り出したいものです。
ブランドはデザインを保証するものとは思っていたけど、質を保証もするんだなあ。と、普段いかになにも考えずに生活しているかがわかります。
なんで英語ができるようになりたいんだろう
英語が好きな理由に気づいた
わたしは映画とか洋楽が好きで英語に興味を持ったわけじゃまったくないってこと。
日本にいたときは洋画めっちゃ好きで常に見たい映画があったし、映画見る予定常に立ててたし、暇さえあれば一人映画もしてた。蔦屋でたくさんあるDVDから面白そうな作品を手にとって探すことも好きだった。気に入った映画を家に持って帰り、見るのがHuluやNetflixでは味わえないたのしみだった。
こんなにも洋画が好きだったのに、アメリカに来てからぜんぜん見てないぞ。なんでだ。
そもそも映画そんな好きじゃないんじゃない?みたいな。
なんで英語が好きかわかった。英語自体に魅力を感じていたんだ。英語ができる人がかっこよく見えるだけ。
わたしはあと留学3ヶ月しかなくて、自分の英語力にぜんぜん満足してなくて。まわりに最近聞いたんだ。みんな最近英語に力入れてる?って。大抵のIBP生の答えはNo。みんな口を揃えていうのは英語が必要ならやればいいと思うって。
みんな留学に来る前は英語が第一目的だったはずなのに。IBP留学はキャリアについて考える機会がほんとうに豊富だ。だからみんなそれぞれやりたいことを見つけてそっちに力を入れるようになったのだと思う。
わたしはといえばなにがあっても英語が話せるようになりたい!の一本ばり。目的はかっこいい人になりたいから。世界中の人とスムーズに話したいから。英語が話したいなあ。自分に自信がないからスキルベースで人を見てるらしいんだよ。今までもプログラミングできるようになりたい!とかSEO対策とか株の勉強しよ!ってなったけど全部ただスキルがある人に憧れてるだけだったなあ。
得意なことを見つけてかっこいい人になりたい。
日本で平和に生きる幸せを再認識
日本には自分がいかに幸せかを感じる環境が少なすぎる。
年末年始にかけて、アメリカ中の大学から学生が集まる会議に参加した。その中で1人の女の人のスピーチと彼女がスピーチの最後に投げかけた質問を通し自分はなんて幸せなんだろうと思った。
スピーチの内容は割愛するが、スピーチの最後に彼女は会場にディープな質問をした。いじめられたことはあるか、いじめたことはあるか、親が離婚しているひとはいるか、危険な目にあったことはあるかなどなど。
質問に対して当てはまる人が椅子から立ち上がるという形式。
わたしはなんて幸せな人生を送ってきたんだろう。
今までいじめられて辛い思いをしたこともない。
両親は健全。
留学だって親頼みで自分で借金もしていない。
うつ病になったこともない。
つらい病気にもなっていない。
働くことを強制されたこともない。
生きていて安全を脅かされる場面に出会ったこともない。
まわりの人が殺されたこともない。
これほど幸せな環境にいる自分がなぜ日常の不運に落胆し、幸せを感じることなく当たり前の日々を送っているのだろうか。
小さな日々のしがらみに悩み、つらいと嘆いていたことに反省。
もっと幸せにポジティブに生きてほかの人の役に立つことをしなくてはと思った。
SNSを見て、することがないといっているわけにはいかない。幸せを感じる人間として、ほかの人を幸せにする義務があると思った。
自分が満たされたら人に幸せを与えられるというけれど、自分が満たされていることを自分で理解し、納得しないかぎり行動には移せない。
幸福度が低い日本人に足りないのは自分がいかに幸せかを感じる環境だと思う。
今回のように自分は幸せであることに気づく機会はとても重要。なんともありがたい機会だった。
小さなことで悩むのはもうやめにしよう。
電車に乗り遅れた、物を壊した、忘れたなど日々の小さい不運に対し、運が悪いなあと思っていたが、今の生活を手に入れているだけでわたしは十分すぎるくらい運がいい人じゃん。幸せだな。と思いました。
今は自分の幸せを認識し、日常の小さなことに悩んでいませんが、またすぐ忘れて悩み始めてしまうと思います。
なので、自分の幸せを感じられる機会を継続的に作ることが必要だと思いました。
日本では幸せを認識する機会を増やしたらもっと幸せな国になると思います。だって幸せな資源はたくさん揃っていて幸せに気づいていないだけなんだから。
実力主義のアメリカは何事も成果ベースで目的を意識?
アメリカはなぜやるのかを意識させる教育が根付くように思う。ある有名なTED Talksで言われていた"why"が大切だという話をちょいちょいいろいろな授業で聞く。
そのTEDの話はたしかこんな感じ。(英語だから完璧には理解してない)ライト兄弟は名声、お金が欲しくて飛行機を作ってたんじゃない、彼らは飛行機を飛ばしてすぐにどこへでも行けるような世の中を作りたかったから作っていた。ライト兄弟のまわりに集まってきた人はみんな同じ飛行機を飛ばしたいと思う人たち。もしライト兄弟がお金を稼ぐために飛行機を作ろうと言っていたらまわりの人が彼らに協力することはなかっただろう。つまり、人はwhyに動かされて行動するものだという話。
アカウンティングのクラスでもあなたがなんでアカウンティング学びたいか考えな。いらないならやらないでいいと思うけど、なにかのために必要なら一緒に勉強しようって。
なぜやりたいかを考えななんて日本の大学で言われたことなかったぞ?
それで感じたのが、
目的を意識するのって日本にはないアメリカ的?文化?ってこと。
ゼミで不採算事業を捨てられない日本企業の話を学んだ。リーダーが事業を切り捨てる勇気がなくて黒字の目処がなくてもやめれない。
そうしてる間に倒産の危機となり、困った企業は外国人のリーダーをトップに呼び事業の精算をお願いし、立ち直ったケースがあることを学んだ。
なんで日本企業は海外企業と比べ不採算事業を捨てれないのかというところにずっと引っかかっていたが、日本の教育、文化に通じるものを感じた。
いらないものは捨てる!なんでやるの!?なんで?なんで?と考えさせられる文化で育ったら意識することなく自然とゴールベース、成果ベース、利益ベースで考えるようになるのかもなあってなんとなーく感じながら生きているこの頃です。生活にも目的意識っていうのが根付いているのを日々の生活、授業から感じています。もっと理解を深めたいところですね。
Whyを考えてこないで生きてきたからここを意識するようにするのが難しいです。目の前のことだけ見て感情で動いてしまいます。
実力主義のアメリカ社会だからこそwhyを問う風習があるのかなあ。なんて。
結婚という行為は幸せにしてくれるのか
5時間の飛行機でイヤホンをスーツケースに入れたままで映画が見れない。とても暇。つまらない人間なので将来起きそうな結婚への架空の状況をiPhone のメモにつらつらつら....
何様?な私の結婚への想いなので読む価値はとくにない記事ですが、架空の状況を一緒に考えながら読んでくれたらうれしいです。
将来起きるであろう架空の状況設定:
好きな人とは結婚できない。でも他の人とならできる状況。これを逃したらいつ結婚できるかわからない。結婚するか独り身かならした方が生活的には幸せ。さて好きじゃないけど結婚してくれる人と結婚するべきか。
なんでこの仮定かって?
恋愛と同じノリで人生が進んだらこの状況になる未来が見えるから。けっこう明確に見えているから怖い。笑
好きな人とは付き合えない。なんなら好きな人っていうのもほんとうに好きかはわからないけどなんとなくいいなーって思う人。そういう人が自分と付き合ってくれる可能性はほぼない。ほぼというか、ない。
だが、
わたしは好きじゃないけど、自分を好きと言ってくれる人がいるとする。好かれてること自体がうれしい。しかも付き合ったらカップルになれ、デートを楽しめる。彼氏がいる幸せを味わえる。でもわたしはこの人をもちろん嫌いではないが、好きではない。人としては好きだけどそういう好きじゃないってとこ。(何様)
だからデートも「デートがしたい」という思いで行く。決してこの人に会いに行く!会える幸せ!というのは感じない。
世の中のカップルがお互い好きでカップルになってるのが心の底からうらやましい。
お互い好き同士のカップルというのがうらやましいから、彼氏かっこいいーいいなーその男の人とわたしも付き合いたい!という気は一切ない。幸せそうなのがうらやましいだけなのだ。
大学の友人と話すのは、
好きじゃないけど付き合うべき?いや付き合わないんでいいんじゃない?だよねえ。好きじゃないしね。っていう会話。大学で一番仲良しの友達とは常にこの話題があがっていた。お互い常に需要と供給が一致しないと嘆き、とくに誰とも長くは付き合わず、自分からチャンスを捨てたりするくせに「カップルうらやましいーー」と言うのだ。
好きって言ってくれるのはうれしいけど好きじゃないんだよなあー。好きになれないんだよなー。でも彼氏いないのも嫌だあー。っていう無限ループ。
好きな人にっていうかいいなーって思った人から!好かれたい!!ってずっと思っている。が叶うことは、ない。
ここで本題:結婚
今ある人となら結婚ができる状況。ただ、好きではない。嫌いでもない。でも、結婚したら生活は幸せになるし、20代で結婚できるし、子供と楽しい生活を送れる。これを逃したらほかに結婚してくれそうな人はいないし、一生独り身の可能性もある。という状況になったとする。(誰もあんたと結婚したいなんて思わんよ?とかいう意見は置いといて。仮定です仮定。)
自分が出す結論はわかっている。結婚はしない。それで独り身として生きていき、周りの結婚している友人をうやらましく思うのだ。
自分がした選択に後悔はないが、他の人の楽しそうな子供と旦那との結婚生活を見てうらやましいって思うんだろうなって。
なんていう矛盾。
うらやましくなるなら好きじゃない人とでも結婚したほうがいいの?
わからないねえ。
たぶん後悔するのわかってもしないなあ。
この前友達に「自分と結婚してくれるという人がいて、でも自分はこの人のこと好きじゃない。これを逃せば今後独り身。どうする?結婚できるチャンスあるなら結婚する?」
って聞いたら友達は
「20年30年一緒にいれる人としか結婚しない!」って言ってた。
ああ、それか。それだよそれ。いつも周りばかり見てなにかをする際の目的を見失うわたし。(30代になったらステータスと安定欲しさに結婚したいって思いそうだけど)
いやあでも20年30年一緒にいたいって思えなきゃ結婚なんて無理だよねえ。それですよ。
ただただ結婚したい!って思いがちょっと変わりました。迷うこともなくなりました。
ずっと一緒にいたい〜って思う人と結婚して、子供と一緒にいい暮らしがしたいです。快適な不自由のない暮らしがしたいです。
ちょっと物事に追われると、もう将来なにもしたくない!主婦になりたい!って思うときもあるけど、やっぱり社会に少しでも貢献し続けていたいし、自分がいなくなっても存在をなにかの形で残せる人になりたいなあって思います。
自分に能力があるとは思ってないけど、人からかっこいいって思われてたいし、ほめられたいし、必要とされる人でいたいし、外の世界と関わっていたいっていうのが捨てれませんね。
かっこいい独立した未来は想像できても、お嫁さ〜ん♡ってなる未来は一切見えない。
もっと夢を見なよ自分って思うけど現実的になりがちです。
こんなこと書いて、飛行機の5時間、暇すぎですね。
一緒にボストン行った親友に暇すぎて結婚観についてつらつら書いてたんだって言ったらやばいやつって言われました。