早稲田のバカを誇りに思った話
アメリカは自由だからやりたいことがやれる。迷惑をかけなければなにをしてもいい。自分に重きを置き、人に邪魔されない自由さがある。というアメリカの良さを耳にした。"自由の国アメリカ"。これを感覚として理解できたことが大きな収穫だ。
そんなとき頭をよぎったのが早稲田の頭おかしいことの数々と尊敬している先輩に言われてきた言葉だ。
早稲田では昼休みにスターウォーズの劇が始まることもあったし、早稲田祭ではゲテモノを食べる競技や墨汁まみれになる競技で勝敗を競い"早稲田王"を決める奇妙なイベントがあったりもした。本庄から早稲田まで100km歩く"100kmハイク"も意味がわからない(参加済み)。しかしどれも最高に楽しい。早稲田が好きって思うのもこういう楽しいことが日常に起きるからだ。やりたいときにアホができるバカたのしい大学だ。
早稲田の人々のコンテンツ力、すばらしすぎる。なぜやりたいと思うのかわたしにはわからなかったが、全力の彼らがとてもかっこよくて、時には彼らが語る熱い言葉に感動していた。自分はやりたいと思わないようなバカげたことに真剣なのだ、最高に輝いていた。
そんな全力でバカになって人々いる人々をかっこいいと思っていたが、今思えば自分の目指す、憧れの像はなぜかいつも世間一般に価値のありそうな方に向いていた。
朝活してる人、交換留学に行っている人、インターンをやっている人、プログラミングができる人、公認会計士のスクールに通っている人、隙間時間を有効活用して勉強してる人などなど。
だめだめな生活の自分をこういう人に近づけようとしていた。どれもめんどくさがってはまらず、すぐやめた。なにか特定のことに注力もせず、授業にふつうに行き、サークルは平部員として楽しみ、飲食でバイトをし、暇さえあれば友達とでかける普通すぎる大学生をずっとやってきた。バカになろうとは思ったことがなかった。
テニスサークルには授業は行かない、単位は落とす、カラオケオール、宅飲みオールざんまいの人がたくさんいた。虚無感を感じない彼らをうらやましいと思っていた。単位落として留年しても気にしない人、就活もしない人もたくさんいた。ここまで割り切れるのほんとうにすごい。わたしも結局はなにもしないのだからここまで割り切ればいいのにそんなことはできない。悪く言えば中途半端、よく言えば両方ほどよくこなすところにいた。
フラッシュモブは学業よりもバカに全力な人がたくさんいた。早稲田のバカな企画にはだいたいモブの人が参加していた。そんな彼らはとてもうらやましい存在だった。なんでそんな一生懸命になれるのかわからなかった。自転車で日本縦断、ヒッチハイク、サバイバル生活、アジアバックパッカーをする彼らは最高にかっこよくみえた。しかし汚い、辛いことは嫌いだからやりたいとは思わなかった。短期の辛さは好きだが長期間辛いのは嫌いだ。
こころのどこかで単位を落として留年したり、永遠と飲み会にしている人を軽視し、意識高いことをやっている人、珍しいこと意識高いことをやっている人をすごい人とランク付けしているところがあった。
知らぬ間に自分の中で基準を作っていたのだ。他人同士を比べ、無意識にどちらが優れているか判断していた。そしてわたしは社会的に意味がある方を優れているとしていた。なぜ他人同士を自分の考え(社会に植え付けられた固定観念)で判断する権利があるのか。いやない。
やりたいバカを全力でやる、大尊敬していたサークルの先輩が「一生懸命な人を笑うな」といつも言っていた。じゃまをするんじゃない。と。一生懸命になにかに取り組んでいるのに陰でバカにする人がいる、それに頑張っている人は苦しんでいるという話だった。
おそらくわたしは他人を勝手に判断し、頑張っている人を苦しめていた加害者の1人だ。そんなことやってなんの意味があるんだ、と友達と文句をいい時にはサークルをさぼりすらしていた。最低だ。
すべてに意味を求め、無意識に人の悪口を言い、一生懸命な人に辛い思いをさせてしまっていたのだ。最高にかっこ悪い。なにもやらないで人を判断するだけの人、バカにする人、否定する人、ほんとうにださい。格好悪い。過去の自分が恥ずかしい。日本人がやりたいことが見つけられない原因のひとつが自分だったなんて。
「一生懸命な人をバカにするな!」これこそが日本の人々に必要な教えだと思った。
日本に暮らしている人にこれを伝えるにはどうしたらいいんだろう。日本にいたときのわたしにこの言葉はぜんぜん響かなかった。自分で理解しなきゃどんな言葉も意味はない。
単一民族が無意識に作り出す共通認識は良くも悪くも、ものすごいパワーだ。"みんな"という枠に引き込むパワーがある。外に出ようとする人を引きつけようとする。強烈な磁石みたいだ。
そんな世の中のパワーにやられず、バカおもしろいバカ最高なことに全力な人々が早稲田にはたくさんいた。
アメリカにきた今、バカをやっていた人々を心から尊敬する。みんなキラッキラしていた。早稲田はやりたいことを見つけている人がたくさんいる大学だったようだ。知らなかった。
早稲田ってこんなに自由な大学だったんだって思い、やっぱりどの大学よりもだいすき!って改めて思った。それぞれの人がやりたいことがたとえバカなことに見えたとしても偏見を持たず、協力してくれるすばらしい大学だ。なんて素敵な。
バカ楽しい早稲田のバカを最高に誇りに思う。感謝でいっぱいだ。バカをする楽しさを教えてくれてありがとう。
やりたいことが見つからない日本社会でやりたいことを実行している人がたくさんいる大学、それが早稲田にしかない良さなのかもしれない。
生活リズムと心の関係
生活リズムがこれほど感情の起伏に関係してるとは意識したことがなかった。生活リズムの乱れは身体だけにとどまらず、心にまで影響してくる。知らなかった。
きっかけはいつものやる気がしない!ってやつ。(n回目)
日本ではやる気がしないときはなにも気にせずひたすらベッドの上でだらだらし、1日寝て食べるだけ生活をしていたが、どうもこっちでは自己嫌悪に陥るから困る。
つまらない人間なので、やる気がしない。気力が全く出ない、なぜだ。と自問自答。2つほどパターンが見つかった。
当たり前のことなのに22年間知らずに過ごしてきたのだ。自分の中ではじめてやる気がしない理由を見つけたのでひとつの成長とする。
①寝すぎ
あほか、というかんじだが、日中のやる気しない病、主にこれ。しかもだいたいは夜12時とかに寝て6時に起き、やる気を出すために朝ごはんを食べ、再びベッドに戻り11時前に起きるという生活をやったときに訪れるのだ。10時間近く寝てることになる。
これをやると全身がだるい。重くて動かない。しかもずっと眠い。最悪だ。
いくらでも寝れるところだが、これじゃいかんと無理やり自分を叩き起こし、活動をはじめる。
が、なにもしたくないのだ。ゲームがしたいわけでもYouTubeが見たいわけでも映画が見たいわけでもない。
とにかく、なにもしたくなくなる。だるいにとどまらず気力すら奪われていくのだ。
気力がなくなるのは寝すぎが原因だと22年間気づいたことがなかった。やる気がしないのはこれが原因だったのか。
わかりはしても、朝ごはんを食べた後に寝る快感がやめれない。土日に時間を気にせず、朝ごはんを食べた直後に昼寝する至福といったらない。魔力だ。改善には時間がかかりそうである。
②食べ物の消化にエネルギーが使われるとき
夜やる気がしなくなる原因がこれにあたる。消化にエネルギーが使われるから頭からエネルギーがなくなるのかと納得。お腹いっぱいだとなにもやる気がしない。力が抜ける。いかんいかん。
最近まで夜にやる気がしない理由がわからなかったけどこれだ。夜は満腹だからだ。
このときも、宿題だけではなく、なにもしたくなくなるのだ。なにもしたくないからなにも考えずにSNSを見る。とりあえず見るだけだから楽しいわけではない。これもすぐ飽きるからだいたいいったん寝る。昼寝ならぬ夜寝だ。夜8時すぎに一回寝て夜11時前に起きる。とても最悪な昔から変わらぬわたしあるあるだ。
これも8時くらいに寝る至福がたまらなくてやめられない。だめ人間だ。深夜まで起き、次の日眠くてだめだめな生活を送るのが見え見えなのにやめれない。夜寝は中毒性がある。
①の寝すぎ悪循環をやめるためにちょっとでも眠いときは朝起きるのをやめた。土日のやる気しない自己嫌悪が想像以上に減った。やはり寝すぎか。わたしは無気力の社会不適合者ではなかったようだ。一安心。
②は止むを得ず(言い訳)なることが多すぎるので改めたいところである。
昔からやる気がしないなにもしないっていう自分に嫌気がさしてばかりですが、わたしはわたしと割り切りこれからも解決策を見つけつつ自分とうまくやっていこうと思います。
理想の自分像と比べると今のわたしはだめ人間。でも完璧な生活をしてる理想の自分になるよりもだらだら昼寝する快感を味わえる今のだめ人間のが幸せだったりして。ね。
英語の発音の年齢制限
頑張れば誰でも発音よくなるっしょって思ってたけどそれは非常に難しく、発音に年齢制限があるという事実は本当だととても実感している。
結婚してアメリカに来た日本人の奥さんたちは20年以上住んでいて英語をすらすら話しているけどジャパニーズイングリッシュなことが多い。発音だけでいったら1年間の留学生たちとあまり変わらないように思う。
わたしのホストファミリーは中国人でアメリカに30年以上住んでいるが、チャイニーズイングリッシュ。来たばかりの中国人の友達と発音はほぼ同じ。中国で彼らは大学を卒業したあとアメリカでMBAをとったらしい。
MBAをとることがきっかけでアメリカに来て今もこっちで働く日本人に何人も会ったが、彼らも皆ジャパニーズイングリッシュ。
やっぱり大学卒業してから(23歳以上?)のタイミングで来てる人は発音に母国語のくせが残るのかあってかんじ。
それに比べ、高校からアメリカに来てる人はネイティブイングリッシュに近い。たとえまだ3年しか住んでないとしても。
発音の話をアメリカ人にしてみたら20歳超えて来てる人はくせがあるねえ。と言っていた。20歳がボーダーっていうのはリアルなラインだ。もちろん早いことに越したことがないが20歳を超えたらもう遅すぎ、間に合わないというのは本当だろう。
発音がきれいな日本人はだいたいみんな中学くらいから洋楽が好きだったと口を揃えて言う。
ちなみにわたしは大学に入る前はほぼ洋楽なんて聞いてこなかった。海外ドラマを好きになったこともなかった。time is too lateだなあ。
英語がすらすら話せなくても発音がきれいな日本人にとても憧れる。かっこいい。
頭が良い人が聞いたら、発音より内容だ、英語はコミュニケーションだから伝えられることが大事なんだとか言うだろうなあ。
今の自分は発音も内容もどっちも中途半端。どっちに重きを置いてもプロにはなれないのはわかっている。さてどうしたものか。
留学の目的に対する自分なりの答え
なぜ留学がしたいのか。留学の目的を探す日々
高校生のときから大学で絶対に留学したい、英語を話せるようになりたいと思っていた。でもなんで留学したいかと聞かれてもずっとなんでかわからなかった。
だから大学の成績も欧米の大学の交換留学の基準には届いてなかったし、奨学金を申し込む書類も埋めることができなかった。何千字も書けるほど理由が探せなかった。
もちろん英語は話せるようになりたいし異文化を理解したい。これが理由?べつにそこまでしたいことじゃない。心の底から湧き上がるモチベーションはない。
そこで一番しっくりきた答えが「やってみたかった。留学をしてみたかった。」以上。
なんでとかはない。留学が目的ではいけないとさんざん言われ、無理やり理由を作った。理由がわからなくて、何度も"留学 目的"ってGoogle検索もした。これいいじゃんってしっくりきた項目を自分の目的リストにピックアップ。
周りの人に聞き、いい答えを探そうとする日々。人の目的を真似しようなんておかしいって疑問を持ちながら留学について考えるきっかけがある度に目的を探そうとした。結局見つからず大学3年生。
3年の秋、就活を考え、このまま就職したらずっとこの後悔を持って生きていくことになると思い、親に頼る決意をし大学は休学して留学。
留学をしなきゃいけない理由も留学を通して達成したい目的もないのにどうしても留学がしたかった。その思いだけはとても強くてどうしても捨てきれなかった。なぜってなに?やりたいからやりたいの!。理由?どうしても行きたいって思うから。そんだけ。
昔からなんでもやってみたいと思う性格だった。いつもなぜやってみたいかという理由はない。やったことがないから試してみたい、やったことがないというのが嫌だという好奇心一択。
だから正直なわたしの留学の目的は好奇心を満たすことと人生で後悔を残さないこと。
留学にきた今、ほんとうに来てよかったって思ってる。なんなら今のところの人生で後悔はもうないくらい。
留学というイベントがやれてよかった。好奇心も満たされ、後悔もなくなり本来の目的は達成。
苦労して留学にきた人が聞いたらわたしに対してむかつくかもしれない。
苦労してでも留学したいって思えるなにか成し遂げたいことがある人は幸せなことだと思う。嫌味とかではなく。
目的がないなら目標を作る。
まともな目的を持たずに留学にきた自分の気持ちを認め、はじめて気づいた留学の"目標"を"作る"必要性。探すんじゃない。とりあえず"作る"
のだ。
なぜなら留学をする前もした後もなんで留学したの?という質問はずっと付きまとってくるから。留学中にモチベーションを失ってしまうから。
答えを持ってないと聞かれたときに困るし、中途半端な人間だと思われる。強い目的を持っている人を見ると自己嫌悪に陥る。また、自分でもなにをしていいかわからなくなる。留学生活の道筋が必要だ。
だからこっちにきて作った。目的ではなく目標を。
①アメリカのビジネス環境を知る
②異文化ってなに?
③自分探し
④英語力 TOEIC900点
以上。
①ビジネス環境を知りたい
とくにビジネス環境を知ることに重きを置くことにした。日本の大学のゼミでアメリカ企業と日本企業の比較を多数やってきた。しかし、なぜアメリカ企業でうまくいっていることが日本企業ではうまくいかないのか想像でしかわからなかった。本から企業文化を理解するのは難しい。企業戦略にそれぞれの国の文化が反映されているのは間違いない。それを知る。アメリカ企業に共通する文化をなにか見つけたい。
あとは働き方の違い。日本が残業が多いのはほんとうなのか。なぜ効率が悪いと言われるのか。ゼミでもアメリカ企業はROEが高いとさんざんやってきたのでその理由を探りたい。
この自分なりの答えを見つけることがひとつ。
②異文化ってなに?
よく言われる"異文化理解"。日本にいると日本人という同民族しかいない。協調性がある。言わないでもお互い分かり合える文化だ。だから日本にいて文化の違いを意識することは基本ない。ああ、これが文化の違いねっていうのを見つける。
自分の意見を言う、言わなきゃ伝わらない文化に自分を置いて世界でやっていける人になりたーーい!
③自分探し
自分探しはどんどん進んでる。日本では時間があればバイトと遊びを入れてきっつきつだったからなにがしたいのかなんて考えたことはほぼなかった。
考える時間がある留学中。ありがたい。
こんな誰得?なつまらないことを書くくらいには時間がある。
④英語力
絶対英語を話せます!って言えるようになって帰ります!!ビジネスに重きをおく留学になる予定(すでになってる)けどやっぱりわたしの目的は英語。最近それを忘れがちだからしっかりしなきゃ〜って反省です。もっと話さなきゃ、勉強しなきゃって危機感を感じなきゃだめだなあ。日常生活で困ってないから焦らない。秋学期なんかしよ。
留学中の目標はまあそんなとこ。自分の指標ってとこかな。これをしたいんじゃないの?ってたまに問いかけると、誤ってた道から正しい道に戻れる。
英語力って意味では外人とバーとか行くべきなんだろうけどなーんか好きじゃないし夜遅くまで遊ぶの嫌いだし帰っちゃうんだよなあ。やるべきこととやりたいことのバランスが難しい。
うその留学の目的を作っていたらなあ。
今となって反省するのは、留学の目的を作っておけばよかったってこと。嘘をならべ、やる気を提示し自分の成績でもいける交換留学や奨学金に申し込むのもありだったと思う。
もし大学2年生に戻ったらそうする。真面目に考えすぎて目的を作るなんて発想はなかった。いくらいい目的を聞いても、いやあそれは違うな、そんなやりたいと思ってないしなあ。わからん!ってなっていた。
ばかだな。なんだっていいんだよ、人に語る目的なんて。割り切りが足りなかったことを反省。
そのときの目的は留学や奨学金に申し込むことと割り切るべきだった。目的が違ったはずなのにそこに気づかなかった。
立派な目的なくてもいいじゃん
もちろん留学に立派な目的を持てたらそれは最高だがわたしのように明確に定まった強い目的のない人は、やりたかったから!っていう目的でもいいんじゃないかって思う。
目的がないと無意味な留学になるよと何度も言われたが少なくともわたしは目標を立てれば頑張れる。せっかくアメリカに来てるからって思えば自分を律することもできる。
留学に行きたいって思いのある人は来ちゃえばがんばると思うなあ。
自分で来たいと思わなければやらないだろうけど。
留学の目的がなにかから逃げることだったら、なあなあに過ごしちゃうかもしれないが、行きたくて自分の意思で来たならいいんじゃない?目的なんてなくても!!
留学楽しいです。
留学に来て半年経過
留学にきて半年が経過しようとしている。以上に書いた目標は徐々に達成できているので最近新たな目標設定をしているところだ。やりたいことやるべきことは時間とともに変わっていく。常に何がやりたいんだっけ?と自分に問いかけてやりたいことをやれれば満足する留学生活になると思ってる。すーぐに忘れるし気づいたら月日がたっているなんてことばかりだから気をつけて毎日を過ごしていきたい!!
毎日を満足して生きることが人生の目標。寝てばっかりだらだらしてばっかりで行動が伴ってないが毎日満足して生きたいと思ってるんだよなあ。こんな真面目ぶった文章書いている自分に苦笑い。基本怠惰な生活を送っている。
もし最後まで読んでくれた人がいたら、ありがとうございます。
旅行の醍醐味、好奇心の方向
(文脈ぐちゃぐちゃ、読みにくい、意味のわからない、なにが言いたいのかわからないわたしのぐっちゃぐちゃな思考回路を表すブログです)
最近友人になぜ旅行に行くのか、行くならなにが楽しいのかと聞かれた。
そのときにふと、わたしは好奇心を自分の外の世界に求めているんだなと感じたという話。
①旅行が好き
わたしは、時間とお金さえあればできるだけ旅行に行きたい。また、人生のゴールとして将来どんな生活がしたいかと聞かれたら、快適な旅行に行ける生活を送ることと答える。
昔から旅行が大好きだ。しかし、なぜ旅行が好きかとは考えたことなかった。また、旅行をそこまで楽しめない人がいるなんて考えたこともなかった。
だからお金を払ってまで行く価値を感じない人がいることに驚いた。
わたしは体験を買うと思い旅行にお金を払うことには納得している。飲み会にお金が飛んで行くなら旅行がしたいという後悔はよく感じていたが、旅行に行くなら〇〇したかったという後悔をしたことはない。バイト代を旅行に使うことにためらいを感じたことはなかった。
②なぜわたしは旅行が好きなのか。
身体で物事を感じ、今まで頭でイメージしていたものと繋がったときなんとも言えない喜びを感じるからだろう。身体全身で感じ、本当の意味でそのものを知った喜びだ、それが楽しい。
写真で見てたものについに出会えた喜び、その景色、その建造物を感じる喜び、見たことなかった世界を発見した喜びなどたくさんの喜びがかさなる。旅行でしか味わえない楽しさだ。
また、そのときだけではなく、旅行の経験は後々に過去を振り返ったときにも喜びを与えてくれる。
行ったことのある場所の話が後日耳に入ると、自分の見た景色が頭にフラッシュバックされる。そのときの思い出とともに。旅行はそのときだけに限らず、何度も楽しさをくれるのだ。だから旅行のその日にお金を払っているのではない。何倍もの価値がある。
どこかに行き体験する非日常の物事は全身全霊で感じていることが多く、忘れにくい。身体で感じると脳への刺激が大きいから忘れにくいのだろう。だから何度も楽しめるのだ。
これからも旅行にいって喜びを得て、人生を濃いものにしたい。楽しみを感じる機会を増やしたい。
おそらく旅行など外界に楽しみを求めるわたしは、好奇心が自分の外に向いている。自分に関心を持つより外界に楽しみを見つけることが多い。外界と接し、関係を持つことが楽しい。
その関係の中での発見が好きだ。
自分でなにか成し遂げたいとかいう感情はそこまで強くない。あまり粘り強くもない。そんなに成果にこだわりを持てない。負けず嫌いでもない。
むしろ周りの人と一緒に喜びを分かち合いたいし、人が喜んでればわたしも幸せだ。人と話してれば幸せだ。
そこまで達成欲求がない理由がなんとなくわかった。あんまり自分の能力に関心がない。
③旅行に価値を置かない人とは
個人的な見解だが、旅行をそこまで好まない、体験に価値を感じない人は身体より頭が先行する人に多いように思う。
それぞれの旅行の目的は〇〇の建物を見ること。とか、〇〇の景色を見ること。となっていることが多い。これに対してなら写真や動画で見れば十分じゃんという意見があるのもまあわかる。お金かけてまでやりたくないというのもまあわかる。
わかるけど同意はしない。だってわたしは自分の目でその〇〇が見たいし雰囲気を感じたいんだもん。匂いを感じたり、大きさを感じたりは行かなきゃできないことだ。それをやりたいと思うかはその人次第。旅行をあまり好まない人は体で感じるというより頭で物事を感じる人なんだと思う。
そもそも、旅行とは行ったことのない場所、人、空間と出会うことであろう。自分とその空間との出会いなのだ。
この出会いに関心がなければ旅行はただのお金の浪費だ。だって、写真で見る景色も実際に目で見る景色も同じものには違いない。
だから、身体で感じるより頭で考える判断することに重きをおく人には旅行より日々の成果の方がよっぽどおもしろく意味のあるものなのだろう。旅行に価値を置かないわけだ。
彼らの好奇心は彼らの中にあり、彼らの内に向かっているのだろう。彼らは好奇心を満たすために彼ら自身でなにかをするように思う。そのような人が達成感をなによりの喜びとし、負けず嫌いな人になるのかもしれない。うらやましい限りだ。
思い、感じるままに文書にしているのでなにを言いたいのかよくわからないが
とりあえず自分の内部の充実を好む人と外との関係性を重視するタイプがいてわたしは後者。
だから身体で外界を感じる旅行が好き。以上。
新環境が好き
ブログタイトルを変えた。理由は引越しをしたから。
以前のタイトルは「ベルビューカレッジ×カークランドライフ」。
しかしわたしはもうカークランドには住んでいない。無事ベルビューカレッジからすぐそばの家への引越しを終えている。
タイトル無双中なのでとりあえずベルビューカレッジってことで保留。
この記事のタイトルに戻ると、引越しをし、環境が変わった。そんな環境が変わったばかりの今がとても好きってこと。
引越しをしたらアメリカに来たばかりのときの初心に戻ったような気がした。
新たな人々と新たな家で、新たな土地で新しい生活がスタート。もうなんかワクワクする。周辺を散歩したり周りのお店を検索したりとても楽しい。
ワクワクすると活動的になれる。朝から動きたくなる。
飽き性で新しいことが好きなわたしには環境に慣れるまでのその期間が1番楽しい。
ワクワクが続いている間は気を張ってポジティブ期でがんばれそうだ。
英語が勉強したくなった。
以前の記事の話に戻るが、今は英語が勉強したくてたまらないから単語をやり、TED talksをひさびさに見始めた。いい流れだ。
やりたくなったからまたはじめた。無理やりではない。
環境が変わるとワクワクする。もちろん、アメリカのシアトルエリアに住んでいることは変わらないので大きな変化ではない。
しかしこうした日々の変化が好きだ。
単純な思考回路でよかった。
次の変化は夏休みが終わり、秋クオーターがはじまるとき。楽しみ。
またはじめはやる気に満ち溢れるだろうなあ。
だんだんだらけてくるのもわかってるから、はじめのスタート時期だけがんばろっと。
最近楽しい!って思うときってなんかはじめたばっかりのときが多いから、
やる気がなくなったらなにか自分から変えてみるのが大事なのかもなあ。
なんてだらだら記事を書いたTOEIC前日。そろそろやりますか。
やらなきゃいけないというプレッシャーを克服した話
留学に来て5カ月になった。夏学期が終わり、夏休みに入り、どうも最近だらけがちだ。
やらなくてはならないことはわかっている。まず、ボスキャリのES、来月のTOEIC,たまに思い立ってやり始めいつも突然中断するHTML。
しかしまあやる気がでない。どれも始めてもすぐに中断してしまう。きっとやらなきゃいけない義務感を感じているからだ。やってみたいことがやるべきことに変わるにつれ、やる気は消沈していく。いつものことだ。
日本の大学でもテスト前でさえギリギリまでいつも何もしなかった。周りからは「よくやらないよね」と言われていた。友人に激しく同意。よくやらないよね自分。
中高大と変わらないわたしの性質。そんなわたしの今のステータスは大学4年次休学、アメリカ留学中。
親に頼んでさせてもらった留学。どうしても行きたかった留学。よく英語もっと頑張らないよねわたし。
そんな日々が続いていて、なんとなく「よくやらないよね」という自己嫌悪への自分なりの答えを見つけた。
それは、やりたくないからやらないしやれない。やりたいことをやりたいときにやる。それでいいじゃん。ってこと。
「よくやらないよね」という言葉にずっと悩んでいた。なんでわたしはやらないんだ、やれないんだ。という自己嫌悪。人からも自分の心からも感じる「よくやらないよね」のプレッシャー。
しかし、最近思うことはやらないんじゃなくて今それに興味がないだけってこと。今は興味がないだけで、またやりたくなったらやるしそれでいいじゃん。
じゃあ宿題はずっとやらなければいいのか。という話だが、究極的にはやりたくなかったらやらなきゃいいと思う。
でもわたしの場合はぎりぎりになったら成績が下がるのが嫌だから、みんなやってるのに自分だけやらないのは許せないから、最後には結局やる。
期限が迫ってくると焦り、宿題がやりたくなるから自分からやりにいく。やらない選択とやる選択で、やる選択をとりたくなるからやる。
回りくどいが、最後はやりたくてやるのだ。好きだからやるのではなく、やらないことの弊害の方が嫌だからやる。
もちろん早め早めから始めるに越したことはないのだが、やりたくないときに無理やり図書館に行ったりしても嫌だ〜やりたくない〜とだらだらし、けっきょくギリギリまで放置するのと変わらない。課題などきちんと完璧にやれたことはほぼない。これがわたし。8割のことを意外と効率よくできる。みんながすごいのを作っててももう知らない!わたしにはできないんだからいいの。
そんなこんなで、やりたくなるまでほっといてほかのことをもっと楽しみたいというのが最近の結論だ。
だから最近はやりたくなるまではやらないでいいやと割り切り、自己嫌悪もなくなりとても気楽だ。
わたしにはこれがいいが、人それぞれだろうなあ。
なぜやらないんだのプレッシャーからやっと解放されてとてもうれしい。